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2005.06.27

アルトゥロ・ウイの興隆

リンク: アルトゥロ・ウイの興隆.

ドイツの劇団、ベルリナー・アンサンブルの「アルトウロ・ウイの興隆」(ブレヒト作、演出ハイナー・ミュラー)。劇場関係の仕事をしている友達に誘われて新国立で観てきました。
シカゴの冴えないギャングが、成り上がっていく話なんだけど、実はヒットラーの台頭を描いている。

ブレヒトの原案では、字幕を使って場面ごとに対応するヒトラーの政治事件を示したそうですが、ミュラーの演出では字幕は使わず、衣装や美術などの雰囲気をシカゴというよりも戦前のドイツっぽくして、ヒットラーについての話でであることを示しています。音楽もドイツのもの(シューベルトの「魔王」やワーグナーの曲)が使われています。

最初始まってからは、ちょっとつまらなく感じた。美術や演出も、なんかちょっと「前に見たことある」感じで。牛とか馬の被り物をかぶって、下はスーツの男性とか、全裸に毛皮のコートのブロンド女性とか、首から上を「ブルーマン」みたいに緑色に縫った男たちとか、ビデオの使い方とか、別に悪くはないんだけど、斬新だとは思わなかった。

だけど、見てるうちに、これってすごいことなんだ、と思い始めた。

ごろつきで、町のだれにも相手にされていないギャングの親玉ウイが、(少しは自分の利権も図ろうとしているが、基本的には中産階級的で良識のある)町の政界人や財界人に、最初は馬鹿にされているんだけど、脅しや彼らのためにやばい仕事をすることで取り入り、最後には、逆に彼らをコントロールするようになる。

ウイが自分たちで、暴力を使った事件を起こしながら、デマを流して「治安を守るために秩序が必要だ」と演説し、権力を強めていく。
演説の練習をしながら、「頭のいい奴がどう思うかなんてどうでもいい。要は大衆がどう思うかなんだ」というウイ。
そして、すっかり指導者っぽくなったウイが、シェーみたいなポーズをとるんだけど、それがナチスのマークのカギ十字なんだよね。(写真参照)

そして、上演後のロビーでは高い台に乗った俳優が、ドイツ語でヒットラーの演説を再現している。(日本語訳が会場に置いてあった。)

ドイツ人にとって、けっして面白い話ではないのに、それを「日本におけるドイツ」という公的な催しの一つとして、日本の国立の劇場で上演している。

このナチ、そしてナチの台頭を許したドイツ社会への批判の作品を観て、だから、ドイツって、戦争をした国に日本よりは「信用」されているんだろうな、と思った。

最近、「自虐」ということばがよく使われるけど、実際には、日本で、戦前、戦中の日本の政策や状況を批判した作品って、映画でも演劇でも本でも、今、ほとんどないと思う。たとえ反戦をテーマにした作品でも、出てくるのは「被害者としての日本人」だ。

最品は、「自虐」ってことばがよく使われていて、使わなくても「ほかのアジアの国に昔のことでもうあやまる必要なんてないじゃん」という人が多い気がする。自分の周りを見ての感想だけど。

それは、日本政府が、教育、教科書から、戦前、戦中の日本に批判的な記述はできるだけ削ろうと努力した結果でもあるけど、本当に国益になってるんだろうか。

たとえば、日本が中国や韓国で、「日本フェスティバル」みたいなのを行って、戦前、戦中の日本の植民地支配について、徹底的に批判的な作品を上演したとしたら、それを見た、あるいは実際に見ていなくても日本政府がそういう催しをやったいうことを知った中国や韓国の人たちの日本へのイメージは、すごく変わるような気がします。よい方に。

でも、まずそういう作品自体があまりないのかも。たとえば、井上ひさしさんの作品は、戦前、戦中の日本の政策、社会や植民地支配について批判的だと思うけど、それでも、ブレヒトやミュラーの批判に比べれば「やわらかい」し、日本の支配を受けたアジアの国々の人々には「甘すぎる」と思われるのでは・・・という気がします。

私が今、期待しているのは、日本のフェミニズムによる、平塚らいてふ、市川房江さんら「婦人運動家」の戦前・戦中のの戦争協力の掘り起こしや批判、「従軍慰安婦」問題への取り組みです。

(女性を含む)戦前・戦中の日本への批判ともに、女性としての他のアジアの女性への共感があり、そこに、日本が他のアジアの人々とつながっていける「回路」があると思うからです。

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