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2005.01.31

松沢呉一さんの意見

松沢呉一●黒子の部屋947


以下は松沢さんの「黒子の部屋」という連載での発言です。

さすが、伏見さんは、ゲイだけあって、国士舘サッカー部の事件を冷静に見ていて、授業の前に「亜細亜大の痴漢事件はひどいけど、国士舘の事件は果てしてそれほどひどいのか」と聞いてきました。 これについては、「セクハラ?」の方でそのうち詳しく書いたものが出ますけど、私もこの事件の報道には憤慨していたのであります。 自分自身の下半身とからめてしまって、現実に何があったのかの判断を誤ってはなりません。 あれって、強姦とか強制わいせつではなくて、児童福祉法違反と都条例違反ですよ。つまり相手が成人であれば、違法性のない行為でしかないのですよ。 主犯格は実刑判決を食らうことになるんでしょうけど、あとは罰金20万円以下の微罪です。酔っぱらってスピード違反をしたって、このくらいの罰金になることがあるでしょう。 だからいいというのではないですが、法的にはそういうことでしかなくて、ああまで叩かれなければならない問題かどうか。

本人も言うように、これを冷静に見られているのは、伏見さんがゲイであり、あの事件で行われた行為は関心外のことだからでしょう。
あれが男子高校生だったとしても、皆さん、こうもエキサイトして、サッカー部員たちを叩くでしょうかね


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2005.01.30

アクタでの松沢吾一さんの発言

今日、アクタで「イク時の風景」という展覧会にちなんだトークがあった。

ゲストは、ブブさん(セックスワーカー)、松沢呉一さん(風俗ライター)
司会進行は、張君、井上メイミーさん

松沢吾一さんが来ていて、「最近16歳の少女が15人の大学生に輪姦されたというニュースがあったが、あれは強姦ではない。それなのにみんな騒ぎ立てているのは、みんな実はポルノグラフィーとして読んでいるからである」というような話があった。

その女性を誘った男性は、15人の男性がいることを先に話していたのか。伝えていなかったのなら、そこに「15対1」のセックスについての彼女の合意があったとは言えないはずだ。15人の男性がいることを知らずに、その女性がその場所にいき、断ることは可能だったのだろうか。松沢さんは、その状況には興味がないのか。15人の男性には、その女性がいやがっているとは思わなかったのだろうか。いやがれば男性たちはセックスをやめたのか。
松沢さんは、これは彼女の自由意志で、その理由として前には一度断っていることをあげている。乱交に同意したら、1対15人のセックスに同意したことになるのか。1対15人のセックスは彼女にとって果たして「乱交」なのか?

疑問がたくさんあった。

これが「合意」でたいしたことがないというなら、従軍慰安婦の問題もたいしたことがないという人を非難できるのか。

その場で何も言わなかった私も最低である。

今の気持ちも最低である。

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2005.01.28

「ホモとかありえなくない?」

中学生の女の子のブログから・・

叫んでみたけれど。-たまごかけご飯。

ねぇ?同性愛ってイケナイんですか? この前、友達達(なーやんも含む)が、「同姓愛とかマヂありえないから~」とか言って笑ってた。 「ホモとかありえなくない?」とか。 涙がでてきた。 どうして、いけないの? どうして、駄目なの?

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2005.01.15

学者のたわごとへのステキな反論1

記識の外

学者のたわごと

しかし、にもかかわらず同性愛や性的マイノリティについて論じているテクストの数は膨大であり、むしろ日に日にそれは増大しつつあるように思われる。

ホモセクシュアル、レズビアン、ゲイ、バイ・セクシュアル、トランスヴェスティズム、アンドロギュノス、性同一性障害、クイアー…と性的マイノリティにかかわる用語はどんどんふえる。

私にわかるのは、少なくともこれらの理説を説く人々全員が「性的嗜癖や性的行動のカテゴリーをできるだけ細分化し、詳細に報告することに対する義務感」を共有しているということである。

すてきな反論

「細分化」を欲しているのは研究者であると同時に当事者たちなわけなのですが。「欲望」の個人化によって諸個人同士がどのような「欲望」の所有者であるか見当もつかない状況に陥る中、「同性愛者」であれ「異性愛者」であれ、自らの「欲望」をすり合わせるために言語化を行ない細かなカテゴリー化を行なうわけです。旧来のカテゴリーに自分の欲望がおさまりきらないとき、そこで新しいカテゴリーが創出されうるし、現にそうやって「欲望」をめぐるカテゴリーは増殖してきた。例を挙げればきりがないけれども、たとえばゲイ内部における「デブ専」「ヒゲ専」「ジャニ専」等々への分化なんかもその一例を考えることができます。そして、研究者としてはそれらカテゴリーの分化を追っかけるのが精一杯で、べつに「義務感」とやらを共有しているわけじゃあない。


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2005.01.10

ストレートの女性のマッキーの歌と同性愛についての分析

ストレートの女性のマッキーの歌と同性愛についての文章です。

・マッキーの恋愛の中には「どちらかの性の独りよがり成分」が少ないのだと思います。
・女は男が考えてる事がよく分からないし、男にとって女はブラックボックスだと思います。だから恋愛がゲームのようなかけ引きになってしまう。それもマッキーの歌には少ない。彼の歌詞は「恋のかけ引き」を歌ったものではなく、「恋する気持ち」を歌ったものばかりです。その率直な歌詞は、男も女も関係なく共感できる気持ちなのです。

なるほどね。

泉のだらだら日記:私とマッキー!

そして大きくなってから思った事は、マッキーの恋の歌はどうしてこんなに切ないんだろう、という事です。Jポップのほとんどが恋の歌なのに、私はマッキーほど切なくてリアルな恋の歌を知りません。マッキーのラブソングは男の視点から見た、ちょっと女々しい感じの歌が多いです。それでも、私のような女の立場からも共感できる歌になっている。 そこは、マッキーが同性愛者であるという事が大きく関係しているような気がします。基本的に男と女は全く違う構造の生き物で、恋愛でもどちらかの性の独りよがりに相手が振り回される事もしばしばです。だから普通の本当の「恋」というというものはどちらかの視点だけでは成り立たない。その点、マッキーの歌には性別が無い。いえ、マッキーは男の人ですが、マッキーの恋愛の中には「どちらかの性の独りよがり成分」が少ないのだと思います。 私は異性愛者なので同性愛者の事は実際よくわかっていないのですが、同性相手だと異性相手より感情がストレートに出てくると思う事があります。言いたい事も分かりやすい。女は男が考えてる事がよく分からないし、男にとって女はブラックボックスだと思います。だから恋愛がゲームのようなかけ引きになってしまう。それもマッキーの歌には少ない。彼の歌詞は「恋のかけ引き」を歌ったものではなく、「恋する気持ち」を歌ったものばかりです。その率直な歌詞は、男も女も関係なく共感できる気持ちなのですラブソングでは歌も男と女の視点にはっきり分かれてしまうのですが、。

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2005.01.03

オペラ2004/2005シーズンへのいざない

オペラ2004/2005シーズンへのいざない

新国立劇場、2004/2005シーズンオペラ 芸術監督からのメッセージ

今年のテーマは《女たちの運命》です。来る1年間、私たちの興味の中核をなすのは、魅力溢れる女性たちです。彼女たちの夢、献身、自己犠牲、希望、決断、そして愛に、その焦点をあわせていきたいと考えています

「彼女たちの夢、献身、自己犠牲、希望、決断、そして愛」って・・・


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