2008.12.21

イデビアン・クルー・オム『大黒柱』@新百合ヶ丘

18日(木)に行ってきました。

イデビアン・クルーは、井手茂太 さんが主催・振り付けするコンテンポラリー・ダンスのグループ。
Ide1Idekodoku

作品全体に漂う、そこはかとないゲイ・テイスト。それもお耽美ではなく二丁目的(だと思う)。

今回は、男性だけの公演なので、イデビアン・クルー・「オム」。

舞台には、天井までとどく大きな角材(というにはあまりに太い)が、斜めに立てられている。ダンサーたちは、ニッカポッカをはいた建設業作業員ふう数人と一人の現場監督、みたいな感じ。

今回、井出さん自身もダンサーとして参加。ラブシャイ体型(ちょっとぽっちゃり)で、独楽のように踊ってました。

井出さんの踊りには「小太りな自分に対するナルシシズム(というか「イケている」という感覚)」が感じられて、それもゲイ的な気がする。

井出さんの「踊り」そのものが面白くて、コンセプトとかセットとかは「とんじゃった」って感じでした。

特に、ふんどし一丁で踊りまくるシーンは、「天の岩戸」の天のウズメの踊り(だっけ)ってこんな感じなのかしらー、と思った。

井出さんについて「面白いけど、意味というか、何のためにやってるのかよくわからない」という感想を持つ人もいて、私もそれはわかる。いいたいことは何なの、そもそもいいたいことがあるのー、という感じである。

でもねー、ここまで踊りが面白ければ「意味」はなくてもいい!と思う。「意味大好き」の私でさえも。

ただ、他のダンサーには、そこまでの迫力がないので、「意味は?」って疑問が頭をもたげてくる。

井出さんについても、これで「意味」というかもっと強いメッセージをもっていたら、すごいだろうなー、とも思った。きっとすごいはず。


あと、複数で踊るとき、井出さんばかりに目が行ってしまうので、アンサンブルとして、作品全体として、どうなんだろうと思った。

唯一、建物の完成の挨拶、見たいなシーンで、話が長いのでみんな寝てしまうという、寝ながらのおどりみたいなシーン(なぜか官能的でもある)は、みんなよかったと思う。

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2008.12.16

ほぼ日々『イタリアの「ゲイ・プライド」事情』への酒井うららさんのコメント

「ほぼ日刊イトイ新聞」に「フランコさんのイタリア通信」という、イタリアのスポーツジャーナリストによるコラムが連載されています。

その中に『イタリアの「ゲイ・プライド」事情』というのがあった。
http://www.1101.com/francorossi/2008-06-10.html

パレードも色々妨害されたりして、「イタリアのゲイ」って大変なんだーと思った。(自分の場合、「こんなにうまくいっています」っていう外国の話より「大変なんだー。でもがんばってます」っていう外国の話を聞くほうが元気がでる気がする。)

記事自体はすごいいいんだけど、これに対する翻訳者(酒井うららさん)のコメントに疑問を感じた。

記事の内容とほとんど関係がないんだよね。(「ダヴィンチ・コード」より「薔薇の名前」の方が面白かったとか・・・)

この記事でフランコさんは、保守派の同性愛者差別への怒りと同性愛者の抵抗への明らかな支持を表しています。

そういう記事を訳していて、そして、
同性愛者が日本にいないわけではないし、差別の問題がないわけでもない・・・
そういう状況で、なぜ、あえてまったく関連のないコメントをするんでしょうか。

私は、非常に疑問を感じたし、
記事を書いたフランコさんに対しても失礼な気がした。
酒井さんが常日頃、セクシュアルマイノリティに関心がないとしても、この記事を訳した後で…、上に引用した文章を自分で日本語にしたあとで、何も関心を持たないのなら、それは記事を書いた人へのすごい侮辱になる気がする。
「あなたの記事は私の心を少しも動かしませんでした」ってことなんだから。
(あるいは酒井さんは、関心がないというよりも、なんらかの理由で自分の意見をいいたくなかったのかもしれませんが)


この記事の最後でフランコさんは最後にこう書いています。


XXXXXXXXXXXXXXXXX
つまりイタリア人のゲイたちが望むことは、ひとつです。
世界の他の多くの地と同様に、
彼らの声に耳を傾けてほしいということです。

「ゲイ・プライド」というパレードで
彼らが示したいのは、
多くの人々が良しとしない彼らの自尊心です。
自分たちと感覚が異なる人たちに、
自分の意見をおしつけようというのではありません。
ただ自分たちのことを理解してほしいのです。

自由とはこういうことではないでしょうか。
成人が自分の判断で意見を同じくする人と
心身ともに愛し合い、
その事を自然に認めて欲しいと願うこと、
いや、まずそう願う彼らの声が阻止されないこと、
それが自由への第一歩ではないかと、ぼくは思うのです。
XXXXXXXXXXXXXXXX

これを訳して、なんでそういうコメントなんだ。

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2006.01.11

「黒ひゲイ危機一発」

「黒ひゲイ危機一発」という「黒ヒゲ危機一発」のニュー・バージョンがトミーから発売されることになり、これに対し「セクシュアルマイノリティ教師ネットワーク(STN21)」という団体が、発売中止を求めています。

私は「販売中止を求めている」というのを聞いたとき、ちょっと驚きました。正直いって「そこまでやる必要あるの?」と思いました。

一方、mixiやブログで、ゲイによる、この抗議に対するかなり激しい批判や反対をいくつか読んで、それにも納得できないものを感じました。(トミーに「販売して欲しい」とメールを出したゲイの人もいるみたいです。)

そこで、もう一度、自分なりに考えてみました。

その結果、私は、今「STN21の方々が販売中止を求めるのはわかるし、それに反対はしない」という気持ちになっています。理由は次のとおりです。

1. 「黒ひゲイ危機一発」が「ゲイ=笑い」という社会の状況を前提とし、それを強化する
第一に、HGおよびHGをモチーフにしたこのおもちゃが「ゲイに対する差別」を大前提にしている、と思います。

HGは、「ゲイ=笑い」という前提がなければ、芸人として成り立たなかったと思うんですね。
HG自身は、個人的にゲイを差別はしていないかもしれないけど、「ゲイ=笑い」という世の中のイメージを利用しているとは思います。そして、それはHGをモチーフにした「黒ひゲイ危機一発」も同じだと思います。

こういう状況は、同性愛を明確に否定する法律や特定の宗教などによるものではなく、毎日の生活の中の一つ一つは些細に思われる嘲笑やからかいなどの積み重ねから生まれるように思います。

「ゲイはからかってもいいんだ」という雰囲気があるから、からかう。それによってその雰囲気がまた強化され、次のからかいを生み出す、という連鎖になっているのではないでしょうか。

異性愛者が多数を占める社会で、毎日の生活の中で、ゲイに対する嘲笑やからかいを指摘していくのはなかなか難しいことです。テレビ番組や商品にそういうものが見られたとき、それに対して抗議するのは有効なことだと思います。私は地道にそういう活動を続けることが大切だと思います。

2.「日本人危機一髪!」が売られていたら嫌じゃない?

STN 21のサイトに掲載されている、12月17日付けのトミーへの抗議文、TBSプロデューサーへの抗議文の中には、

もし、樽の中に入れられる存在が、同性愛者ではなく、障害者や 在日コリアンだったとしたら、そしてその人たちが入っている樽に剣を突き 刺して「楽しむ」玩具があったとしたら、そのような玩具を貴社は発売なさるのでしょうか。

と書かれています。
http://homepage3.nifty.com/stn/kougi2.html

私は、これに加えて、樽に入っているのが「日本人」だったらどうか、というのも考えてみて欲しいと思います。

昔から、アメリカ映画に登場する日本人その他のアジア人って、「こんな人いないよ」って感じのものが多かったし。また、80年代にはいわゆる「ジャパン・バッシング」が盛んで、アジア人の中でも、特に日本人を揶揄するような表現が溢れていました。(最近は、ずいぶん変わってきたと思いますが。)

今でも、もし、デフォルメされた『日本人』の人形を樽に入れた「日本人危機一髪!」っていうおもちゃが、外国で売られてたら、嫌じゃないですか?
海外で、そんなおもちゃ売られたら、日本では大勢の人が反対すると思います。

3.ゲイの子供たちのことを考えて・・・

日本のゲイは私も含めて(親しい友人等は除いて)カムアウトしていない人がほとんどです。たとえば、カムアウトしていないノンケの友達の家に行ったら「黒ひゲイ危機一髪!」があって、みんなでそれをやることになって、(ゲイの真似をしてる)HGのまねをされたりして、それで「面白いよねー」なんてニコニコするのは、ちょっと嫌。

もちろん、私を含め大人ゲイは ゲイとして嫌なこともいろいろ経験してるし、やり過ごせると思うけど、中学生ゲイの子が、友達の家に行ってそういう目にあったら、かなりつらい、と思います。

「クラスでゲイってからかわれている子供が、修学旅行でスマキにされて、『黒ひゲイ危機一髪』といわれて、みんなにドツかれる」なんて、ありそうで、想像するだけで苦しくなります。

また、たとえば中学校で、ゲイの子がいて、ゲイであることでからからかわれていて、それを(幸運にも)先生が注意した場合、子供たちが「だって大人だってゲイのこと笑ってるじゃん。有名おもちゃメーカーからおもちゃも出てるよ」って反論したら、先生はうまく答えられないのではないでしょうか。

STN21のサイトに掲載された、「私たちの考え ~玩具に必要な教育上の配慮について~」という2005年12月24日付けの文章には、以下のように書かれています。
http://homepage3.nifty.com/stn/kougi.html


私たちは、「ホモ」「オカマ」「レズ」、そして「ゲイ」という言葉によって、子どもたちがいじめや相手をけなす行動をとるのを、これまで教室の中で幾度となく経験してきました。同性愛の子どもは、自らの存在を肯定することの出来る環境にはなく、多くの場合、友達からも、教職員からも、そして家族からさえも孤立して生きています。

 情報社会といわれる今日、私たち大人のセクシュアルマイノリティは、インターネットをはじめとして、各種メディアから存在を肯定されるような情報を「当たり前」のように入手することができます。また、セクシュアルマイノリティ同士の出会いの中から、自らの存在を肯定し、受け入れられるようにもなります。少しずつではありますが、セクシュアルマイノリティをとりまく環境は変化しています。

しかし、子どもたちの能力、そして環境では、それは決して「当たり前」のことではなく、大人社会ほど、差別が当然であった環境の変化も残念ながらありません。

大人の同性愛者でも、時に生きづらさを感じたり、声をあげにくい「マイノリティ」でありますが、子どもは「大人社会」で必要とされる以上に注意がはらわれる必要があります。

私は、これはもっともな指摘だと思いました。

4.ゲイが拷問されている国もある。

私は、日本で、「黒ひゲイ危機一発」の発売によって、ゲイに暴力をふるってもいいと思う大人が増える可能性は低いと思います。

でも、今現在、同性愛者であることを理由に処罰されたり、拷問が行われる国もあるそうです。
それは外国のことですが、日本にまるっきり関係がないわけではない。
そういう国から日本に来て住んでいる同性愛者もいるでしょう。
最近では、イラン出身のゲイの男性(ジェイダさん(仮名))が、出身国での同性愛者に対する迫害を理由に、日本への亡命を求めましたが拒絶され、結局他の国に出国した、ということがありました。

そういう状況では、ゲイ(と名づけられている人形)を樽にいれて、突き刺しているように見えるおもちゃ(トミーは突き刺しているのではなく「縄を切って解放する」と説明していますが)には、やはり抵抗を感じます。

というわけで、最初STN21の販売中止要求にあんまり好意的ではなかったのですが、いろいろ考えているうちに、むしろ今はこの抗議を応援したい気持ちになっています。(実際になにかをするかどうかは考え中です。)

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2005.09.30

メゾン・ド・ヒミコ、納得できない点

「メゾン・ド・ヒミコ」納得できない点(追記:「メゾン・ド・ヒミコ」のオフィシャルサイトに書き込んだのと同じものです。)

「メゾン・ド・ヒミコ」について、私の周りのゲイの友人たちの間で「おかしい」「納得できない」という声が多かった部分が二つある。
一つは、ホームの住人の一人である、山崎が女装して出かけるところ。もう一つは、柴崎コウがオダギリ・ジョーとセックスしようとするところである。

そして、オフィシャルサイトやオフィシャル・ブックに載っている作り手達の、同性愛者に関する言葉も、やはり疑問の残るものだった。

(1)山崎が女装で出掛けるシーンについて
念願の女装をして、ホームの仲間とクラブ(というかグランド・キャバレー)に出かけるところがあるこのシーンについて、「女装で出掛けるのにカツラもかぶっていないのはおかしい」という意見が多かった。
私もそう思う。

もちろん、そういうことにこだわらないで女装する人もいるだろうが、山崎は、自分が女装するとみっともないと思っているのである。女装なんて珍しくもないであろうメゼン・ド・ヒミコの住人たちにさえ、自室の女装の衣装を見せたことがなかった。沙織に後押しされて女装で出掛ける際も、なかなか決心がつかない。つまり山崎は人目に敏感なのだ。
そういう山崎が、女装で外に出掛けるんなら、精一杯のことをするだろうし、まわりの人間だってそれを手助けするはずだ。山崎は、バー・卑弥呼と関わりのある人だろうから、女装というものを頻繁に見ているはずである。また、ホームのほかの住人にはバー・卑弥呼の元従業員らしき人もいる。そういう人たちと一緒に住んでいるのだから、自分で化粧や支度ができなくても、誰かが手伝んじゃないだろうか。
実際、ヒミコは山崎と出掛けるホームの住民たちに、「だめよ」といってブラックスーツでドレスアップさせている(このシーンはとてもいいと思う。)。これらを考えると、あのシーンでのメークもヘアもあまりにも中途半端である。

その後、山崎は、クラブでもと務めていた会社の同僚からオカマと罵倒される。それを見て沙織は怒るが、途中からその沙織の姿を好ましく思う春彦とのキスシーンになってしまい。罵倒していた元同僚にはどう落とし前をつけたのか、山崎はどうなったのかは、わからないままで終わってしまう。

作り手の側の山崎という人物に対する扱いがあまりにも雑で、そのため、山崎の中途半端な女装は、罵倒されるため、さらには、それに怒る沙織を春彦が好ましく思い、二人がキスし、セックスしようとするための伏線でしかないように思われる。同性愛者が、話の都合上の背景でしかないように思われるのである。

(2)春彦が沙織とセックスしようとするシーン
このシーンの意味をついて、脚本家の渡辺あや氏は以下のように説明している。
「ゲイの人たちも、一度くらいチャレンジしてみてもいいんじゃないかという気持ちが頭のどこかにあると思ったんです。春彦にとっての沙織は愛する人の娘だから、普通の女の子とも違う存在で、人として『コイツいいな』って感じで、もしかしたらできるんじゃないかとトライしてみたってこと。これは私の解釈なので他の人にとっては違うかも知れないけど。」

たとえ「ゲイの人たちも、一度くらいチャレンジしてみてもいいんじゃないかという気持ちが頭のどこかにある」としても、そんな理由で、瀕死の恋人と同じ屋根の下で、その娘と「チャレンジ」するだろうか。

これをストレート(異性愛者)の男性に当てはめたらどうなるだろう。
「ストレートの男性たちも、一度くらいチャレンジしてみてもいいんじゃないかという気持ちが頭のどこかにあって、愛する女性(瀕死の病で床についている)の息子だから、普通の男の子とも違う存在で、人として『コイツいいな』って感じで、もしかしたらできるんじゃないかとトライしてみた。」

「メゾン・ド・ヒミコ」のオフィシャル・ホームページの掲示板に寄せれた感想を見ると、「やさしい」とか「癒された」というものが多いが、こういうストーリーでも、「やさしい」と思ったり、「癒され」りするのだろうか。

このシーンについては、製作段階で、すでにゲイから批判されていたとのことである。
助監督の加藤聡氏は、オフィシャル・ブックの中の「撮影日誌」で、春彦と沙織のラブシーンについて、「ゲイの皆さんにも必ず『ありえない』と忠告を受けた場面だった。」「取材協力にも名前をつらねている”プライベート・ゲイ・ライフ”の著者・伏見憲明さんもその一人で「このシーン」は外した方がいいんじゃないかとまでのご指摘だった」と述べている。

犬童監督は、オフィシャル・ホームページのインタビューで、このような批判について
「実際のゲイの方達にはあり得ないとずいぶん言われました。でも,僕とあやちゃん(脚本家)の中ではあり得た。」と語っている。
では、監督と脚本家には、ストレートであっても同性とセックスする気持ちが頭のどこかにあるのだろうか。この映画を見、インタビューなどを読む限り、私にはそうは思えない。この映画の中で、異性愛者たちの世界や欲望はまったく揺らいでいるようには見えないのだ。揺らぐのは同性愛者の側だけなのだ。これは異性愛と同性愛を同等とは思っていないからではないだろうか。(もし、本当に「ストレートであっても同性とセックスする気持ちが頭のどこかにある」ってことだったら、異性愛者の男が、他の男とセックスしようと誘う映画にしてほしかった。)

私には、この映画の春彦と沙織のキス・シーンやセックスしようとするシーンは、異性愛者の欲望(に応える商売)のためのものとしか思えない。

(3)作り手の姿勢について

この映画の脚本家 渡辺あや氏は、オフィシャル・ブックのインタビューで、「モデルはいませんか?」という質問に対し、以下のように答えている。

「いないですね。ゲイの人も身の回りにはいないので。まったくの空想です。『つるばらつらばら』の時にたくさん資料をいただたいて、それで学習した程度。実際に結婚する人がいることも、その資料ではじめて知りました。」

一方、渡辺氏は、同じインタビューの中で、改稿を重ねる途中、この物語を書く資格が自分にはないと明確に思って、全然違うストーリーにした、と語っている。
「書く資格がないというのは?」という問いに対し、
「まだ、自分が30代前半でというのがコンプレックスで、それよりもずっとながく生きているひとたちのしかもヒミコのように死を目前としている人の気持ちをかけるのだろうか、と。ヒミコという人物を描写するにあたっって、私にはいろんなものが不足していると悩んだし、壁にぶち当たってペチャンコになりました。」
と答えている。

このインタビューを読む限り、渡辺氏は高齢の人を描くことに対して「資格がないのでは」と自問するのに、ゲイを描くことについては、同じような不安をもっていない。このことは、彼女にとって高齢者は実在するものだが、ゲイは「想像上の存在」でしかないないことを示しているように思われる。(ちなみに、渡辺氏は、「メゾン・ド・ヒミコ」のオフィシャル・サイトで、「小さい頃からムーミン谷が大好き」で、「ああいう場所に行きたいな、と思いながらてくてく歩いてみたらたどりついたのが『メゾン・ド・ヒミコ』でした」、と語っている。)

犬堂監督は、オフィシャル・サイトに載っているインタビューで、以下のように語っている。
ゲイの人たちや芸人は、僕(犬堂監督)には“解放された人たち”に見える。それまで自分が暮らしてきた一般社会、生活といったものに踏ん切りをつけて、違うところに踏み込まないといけない。そこはしんどいけど自由な場所で、ゲイの人たちもそういう場所にいると思えてしまう。勝手な思い込みだが。「つるばらつるばら」の準備のためにゲイについての資料をたくさん読んでいて、それはそのまま自然に『メゾン・ド・ヒミコ』(以下『ヒミコ』)につながっている。僕はゲイの人たちの資料をずっと読んできて、彼らの抑圧の歴史のようなものを入れたかった。

そのためか、スタッフ・クレジットには、自らゲイであることをカミングアウトしている作家の伏見憲明氏の名前が載っている。しかし、オフィシャルブックにも、サイトにも、伏見氏、あるいは取材に協力した他のゲイの意見、彼らと行われたであろう対話などがほとんど載っていない。私が見た限り、春彦と沙織のラブシーンについて批判があったことだけで、それについては、先ほど述べたように、作り手の側から、納得できる説明をしているとは思われない

異性愛者の人が、ゲイを描いてもかまわないと思う。でも、そのとき、その難しさに自覚をもってほしい。「メゾン・ド・ヒミコ」を観る限り、作り手の側にとって、「ゲイ」は物語のための、便利な道具でしかないように思われる。つまり、ゲイが蔑ろにされているのである。(広辞苑によれば、「蔑ろ」とは「他人や事物を、あっても無いかのように侮り軽んずるさま」である。)

このように思っているのは、私や私の周りのゲイだけではない。「メゾン・ド・ヒミコ」のオフィシャル・ブックに収められた批評「エレクトラ・コンプレックス」の中で、映画評論家の田中千世子氏は以下のように述べている。
「・・・私にとって『メゾン・ド・ヒミコ』は柴崎コウのための映画である。同性愛者の老人ホームとか、世間の差別とか、カムアウトとか、同性愛者と恋愛する異性愛者の苦しみなどということはあまり重要ではない。物語の展開上そうしたことが出てくるに過ぎないような気がする。同性愛者たちが弱者、被害者、日陰者というパターン化された立場で描かれているので、一層そんな見方になるのだが・・・(以下略)」


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2005.07.26

本: NPOインターン日記@CUAVサンフランシスコ―LGBTQコミュニティの中で(その2)

リンク: Amazon.co.jp: 本: NPOインターン日記@CUAVサンフランシスコ―LGBTQコミュニティの中で.

「NPOインターン日記@CUAVサンフランシスコ
―LGBTQコミュニティの中で」

アマゾンに、読者のレビューが載ってました。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4873731402/qid%3D1121687728/sr%3D1-2/ref%3Dsr%5F1%5F8%5F2/249-4207771-1989152

「・・・読む前は、同性愛についての本ということで、少し抵抗があったのですが、読み進めると、決して同性愛についての本ではなく、人生の生き方としてこういう生き方もあるという参考書のように感じられました。同性愛というと、どうしても暗い内容を想像しがちですが、この本に暗さは微塵も感じられず、サンフランシスコの綺麗な町並み、充実した生活、そこに生きる素敵な人々を、まさに映画を観るように感じることができました。」

「決して同性愛についての本ではなく」
ってほめ言葉(のつもり)なんでしょうね。

で、このレビューには「映画のような」っていうタイトルがついてるんだよ。

私にはいらいらする文章ですが、この本を読んだ感想としては、なるほどね、と思います。こういう感想を呼び起こしそうな本なんだもん

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2005.07.18

本: NPOインターン日記@CUAVサンフランシスコ―LGBTQコミュニティの中で

映画祭ロビーの売店で買った本です。

リンク: Amazon.co.jp: 本: NPOインターン日記@CUAVサンフランシスコ―LGBTQコミュニティの中で.

セクシュアル・マイノリティを支援する、サンフランシスコのNPO法人「クアブ」での3カ月にわたるインターンをした、青森の女性の日記です。

おもしろそうだったのですが、とってもつまらなかった。

だって、著者のセクシュアリティについての考えも、日本のセクシュアルマイノリティの状況についての意見も全然書いていなくて、ただ「考えさせられた」とかだけ書いてあるんだよ。で、それを青森でどう活かすのか、みたいな話も全然ない。

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内藤ルネ先生のお茶会-My favorite things

リンク: 内藤ルネ先生のお茶会-My favorite things.

また、ファンの若い男性から「あの時代からセクシャルマイノリティということを隠さずに前向きに生きていることに感激した」という発言がありました。

この、「若い男性」ってわたしです。うふ。

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2005.06.27

アルトゥロ・ウイの興隆

リンク: アルトゥロ・ウイの興隆.

ドイツの劇団、ベルリナー・アンサンブルの「アルトウロ・ウイの興隆」(ブレヒト作、演出ハイナー・ミュラー)。劇場関係の仕事をしている友達に誘われて新国立で観てきました。
シカゴの冴えないギャングが、成り上がっていく話なんだけど、実はヒットラーの台頭を描いている。

ブレヒトの原案では、字幕を使って場面ごとに対応するヒトラーの政治事件を示したそうですが、ミュラーの演出では字幕は使わず、衣装や美術などの雰囲気をシカゴというよりも戦前のドイツっぽくして、ヒットラーについての話でであることを示しています。音楽もドイツのもの(シューベルトの「魔王」やワーグナーの曲)が使われています。

最初始まってからは、ちょっとつまらなく感じた。美術や演出も、なんかちょっと「前に見たことある」感じで。牛とか馬の被り物をかぶって、下はスーツの男性とか、全裸に毛皮のコートのブロンド女性とか、首から上を「ブルーマン」みたいに緑色に縫った男たちとか、ビデオの使い方とか、別に悪くはないんだけど、斬新だとは思わなかった。

だけど、見てるうちに、これってすごいことなんだ、と思い始めた。

ごろつきで、町のだれにも相手にされていないギャングの親玉ウイが、(少しは自分の利権も図ろうとしているが、基本的には中産階級的で良識のある)町の政界人や財界人に、最初は馬鹿にされているんだけど、脅しや彼らのためにやばい仕事をすることで取り入り、最後には、逆に彼らをコントロールするようになる。

ウイが自分たちで、暴力を使った事件を起こしながら、デマを流して「治安を守るために秩序が必要だ」と演説し、権力を強めていく。
演説の練習をしながら、「頭のいい奴がどう思うかなんてどうでもいい。要は大衆がどう思うかなんだ」というウイ。
そして、すっかり指導者っぽくなったウイが、シェーみたいなポーズをとるんだけど、それがナチスのマークのカギ十字なんだよね。(写真参照)

そして、上演後のロビーでは高い台に乗った俳優が、ドイツ語でヒットラーの演説を再現している。(日本語訳が会場に置いてあった。)

ドイツ人にとって、けっして面白い話ではないのに、それを「日本におけるドイツ」という公的な催しの一つとして、日本の国立の劇場で上演している。

このナチ、そしてナチの台頭を許したドイツ社会への批判の作品を観て、だから、ドイツって、戦争をした国に日本よりは「信用」されているんだろうな、と思った。

最近、「自虐」ということばがよく使われるけど、実際には、日本で、戦前、戦中の日本の政策や状況を批判した作品って、映画でも演劇でも本でも、今、ほとんどないと思う。たとえ反戦をテーマにした作品でも、出てくるのは「被害者としての日本人」だ。

最品は、「自虐」ってことばがよく使われていて、使わなくても「ほかのアジアの国に昔のことでもうあやまる必要なんてないじゃん」という人が多い気がする。自分の周りを見ての感想だけど。

それは、日本政府が、教育、教科書から、戦前、戦中の日本に批判的な記述はできるだけ削ろうと努力した結果でもあるけど、本当に国益になってるんだろうか。

たとえば、日本が中国や韓国で、「日本フェスティバル」みたいなのを行って、戦前、戦中の日本の植民地支配について、徹底的に批判的な作品を上演したとしたら、それを見た、あるいは実際に見ていなくても日本政府がそういう催しをやったいうことを知った中国や韓国の人たちの日本へのイメージは、すごく変わるような気がします。よい方に。

でも、まずそういう作品自体があまりないのかも。たとえば、井上ひさしさんの作品は、戦前、戦中の日本の政策、社会や植民地支配について批判的だと思うけど、それでも、ブレヒトやミュラーの批判に比べれば「やわらかい」し、日本の支配を受けたアジアの国々の人々には「甘すぎる」と思われるのでは・・・という気がします。

私が今、期待しているのは、日本のフェミニズムによる、平塚らいてふ、市川房江さんら「婦人運動家」の戦前・戦中のの戦争協力の掘り起こしや批判、「従軍慰安婦」問題への取り組みです。

(女性を含む)戦前・戦中の日本への批判ともに、女性としての他のアジアの女性への共感があり、そこに、日本が他のアジアの人々とつながっていける「回路」があると思うからです。

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2005.05.07

小・中学校等の授業において同性愛者について扱うことをどう考えるか。

東京メトロポリタン・ゲイ・フォーラムが実施した
「'05 東京都議会議員選挙調査プロジェクト」の結果がwebで公開されています。
これは、

2005年6月24日告示・7月3日投開票の東京都議会議員選挙にあたり、      
     ・立候補を予定している者
      (対象:新宿区、中野区、杉並区、世田谷区、板橋区、練馬区、北区、
          江戸川区、台東区、立川市選挙区、西多摩選挙区、南多摩選挙区)
     ・東京都議会に現在議席を持つ政党・会派と、今回の都議選で候補者を擁立する政党   
    を対象として実施する、ゲイに関連する政策についてのアンケート調査です。

その中で、「小・中学校等の授業において同性愛者について扱うことをどう考えるか。」
という設問があって、これがすごく「試金石」な気がします。同性愛についてどう考えているかについての・・・

リンク: .

問3 1)小・中学校等の授業において同性愛者について扱うことをどう考えるか。

   ●猪爪まさみ(新宿区、民主党、新人)
     <回   答> c.扱う学年を一定学年以上に限定すべきだ
                 (具体的に何年生以上か?:記入無し)
     <回答理由> 性同一障害(編集注:原文のまま)も含め一定年令になったら話す必要も
               あると思いますが、年令の設定はもう少し考えさせてください。

   ●門脇ふみよし(杉並区、民主党、新人)
     <回   答> d.扱うべきではない
     <回答理由> 記入無し

   ●和田宗春(北区、民主党、現職)
     <回   答 a.積極的に扱うべき
     <回答理由> 記入無し
   
   ●初鹿あきひろ(江戸川区、民主党、現職)
     <回   答> c.扱う学年を一定学年以上に限定すべきだ
                 (具体的に何年生以上か?:高校生から)
     <回答理由> 記入無し
 
   ●中村明彦(台東区、民主党、現職)
     <回   答> d.扱うべきではない
     <回答理由> 取りだてて(原文のまま)問題提起する必要がない。

%

「同性愛への差別には反対」といっていても、「小中学校で扱うべきではない。」という人は、結局同性愛について「ダメなこと」と思ってると思う。

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2005.04.03

誕生日にはティアラを

「美人画報」という女性誌が創刊されたんだけど
BLENDA_MAGAZINE
その中の記事で「女友達同士でお誕生会をする」っていう提案が面白かった。トレンディで、行ってみたいな、と思う素敵なレストランを予約して、そこでお誕生会をやるんだけど、その日お誕生日の子はティアラ(シンデレラとかがかぶっていそうな、ちっちゃい冠)をかぶるの。よくない?まねしたいですね。あと、こういうケーキがいい、とか、こういうお土産がいい、とか、誕生日の子が驚くようなゲストをこっそり呼んどく、とか、いろんなアイデアが載っていました。ひさびさにときめいた。

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«「社長がゲイ」で、それが何か>?